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創業者 豊田 林三 物語
(豊田家の歴史)

砂鉄と木炭を使う独特の方法で鉄や鋼をつくる技術を『たたら製鉄』といい、出雲地方の山間部では昔から質の良い砂鉄がたくさん採れたので『たたら製鉄』が大変盛んでした。

江戸時代である1820年頃、広島県の土生の中谷の豊田家の祖先に『滝右ヱ門』という者がおり、豊田鋳造の始祖であり、府中鋳物の元祖だそうです。当時は府中にも新市にも鋳物屋はなかった時代で、付近に家もなく溶解の火花は一里先からも見え、送風機には5~8人くらいの人がついており、板を踏んで風を送っていたとのことです。『もののけ姫』に出てくる『たたら場』のイメージですね。その時代は、お寺の鐘や神社の手水舎にある亀などの芸術品から、鍋、釜や火鉢など家庭日用品も作っていたと言われています。

現在も広島県府中市にある釈迦院というお寺の釣鐘は、豊田鋳造の製品だと言われています。

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明治の末期に工場が火災にあい、一時休業の末、大正になって府中市に場所を移し操業を再開させたのが豊田精市です。この豊田精市とうめの三男として生まれたのが、創業者である豊田林三になります。

 

しかし、大正10年頃(1921年頃)に鋳造所を閉鎖しており、生活苦の為、大正13年(1924年)に林三が8歳の時に丁稚奉公で広島から大阪の玉造へ一人で上阪することになりました。奉公先である清水家の家業である『第一作業帽』で、家事や子守、店の掃除から始まり段々と雑務全般や、ミシンの扱いなどを習得していきます。

8歳という幼さだったので、奉公先の同世代の子供たちは学校に行っている事がうらやましく、離れ離れの家族が恋しかったと晩年には子供たちや孫たちに語っていました。

男5人兄弟の中で、次男の志一、四男の伊二も九州等に丁稚奉公に行ったそうです。

12年勤めた後、1937年、21歳の時に大阪の都島に縫製場を構えました。

カッターシャツなどの縫製や軍需用品の縫製などを請け負い、この時に各紡績会社や商社とのつながりを深めました。

この頃、お見合いで八枝子と出会い結婚をし、1男3女に恵まれました。

 

戦後、大阪船場にミシン糸販売、カッターシャツ、セーター販売等4店舗展開し、ここで自社ブランド『ヒマラヤライオン』が生まれます。1階がお店で2階に住居があり、三木楽器本店の斜め向かいに住んでいました。

実家でも、戦後、広島市安佐北区可部で精市の次男の豊田志一が鋳造所を開業し長年にわたり続けていました。

次男の志一とは盆栽の趣味が同じであり、幼い頃に離れ離れになってしまっていましたが、大人になってから盆栽を通して親交を深めていました。

趣味と言ってもなかなかの腕前だったらしく盆栽で賞を取るほどでした。

 

 

精市の長男の孫の豊田光雄は、1950年代の豊田商事にて勤務していました。光雄は絵がとても上手で芸術肌だったので、小学生だった林三の長男である公二も小学生時代よく教えてもらったり、遊んでもらっていたそうです。

その後、社内で出会った方と結婚をした光雄は、府中に戻り1960年から1970年まで土生で鋳物工場を開業し、機械鋳物等の製造を行っていました。​

1964年船場の店舗の閉店と共に八枝子の実家がある平野に拠点を移し販売から加工工場に主力に変えていきます。

​この当時、大阪市平野区長原から大阪城が見えるほど高い建物がほとんどなかったそうです。

1991年に脳梗塞になるまでは、寝る間を惜しみ仕事や趣味、地域貢献など常に動き続けていました。

脳梗塞になって半身麻痺になってからも、仕事に復帰するんだ!とあきらめる事なくリハビリをし続け、時にリハビリをやり過ぎだと止められるほどパワフルな人でした。

奉公先であった第一作業帽の清水家とも奉公後もずっと家族ぐるみのお付き合いがあり、清水家の息子さんである清水栄次郎さんは林三より年下だったので、奉公時遊び相手になってくれ、よく世話をしてくれたとおっしゃってくれていました。林三も栄次郎さんも亡くなっていますが、今もなお豊田家と清水家の家族でのお付き合いが続いており、奉公で出会ってからちょうど100年が経ちます!

​ちなみに清水栄次郎さんは2007年に藍綬褒章を受章されており、大学生の時に司馬遼太郎と同級生だったそうです。)

 

幼くして兄弟がバラバラになり、一緒に過ごした日々は短かったですが、家族の絆は強く、豊田鋳造所の再建の為兄弟達で力を合わせ豊田鋳造所を支援しました。

そして、鋳造所と繊維加工であるガス焼き加工では、全然違う業種ですが、同じ火を使うお仕事。これも何か縁を感じずにはいられません。

大正、昭和、平成と怒涛の日々を生きてきた豊田林三、子供や孫たちからは今でも慕われており、本人のバイタリティーあふれるパワフルさと、出会った方とのご縁に恵まれた人生だったのではないでしょうか。

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